ひんやりとした雨の一日。
ご来院の方も少なく、静かな時間を頂戴しました。
こんなときは、先師のご遺訓を紐解き、
心たむけることが理想とされるところですが
お寺の備品の修繕に勤しみました。
「形あるものが、やがて壊れていくことは、
世の常」といえますが、
その経過時間を緩やかにすることは
使う側の心がけで大きく左右されます。
作業中ふと
お釈迦様が着古した衣を、生活の道具として
様々に活用され、お手洗いの雑巾とした後
細かく裂いて、塗り壁の補強材にされた話を
思い出しました。
しかしこの頃は、繕った服や靴下を見かけることも
めっきり減り、雑巾までが水をはじく真新しい布で
作られ販売されています。
案外、「繕(つくろ)う」
という言葉も死語と化しているかもしれません。
(試しに、息子に尋ねてみましたら・・。言葉を失いました)
「不要」という
観点が中心となり、
物を捨てる時、
同時に心をも
捨て去ってしまうことに気付かされます。
先程も調子の悪くなった機械を修理のために
電気屋さんへ持って行きましたら
「直すより新しいものを、
買ったほうが安く付きますよ」
と言われ、困惑いたしました。
迷った挙句、修理を依頼しましたが
無駄遣いだったのでしょうか。(未だ答えは出ず。)
しかし、機械物って保障期間が過ぎた頃
それを知っているかのごとく壊れてしまうのは
何故なのでしょう?(私のところだけ??)
それだけ高品質ともいえるのでしょうが、
この品質の高さはいただけませんね。
とにかく、折角出合ったお道具。
愛着を持って大切に使わせて
頂きたいと思います。
あ〜勿体無し。勿体無し。